少女へのあこがれ

ネットプリント掌編「百足の心臓」ですが、フォロワーさんに教えていただいて、ファミリーマートやローソン、サークルKサンクス、セイコーマートでもプリントできるよう登録しました。

こちらはマルチコピー機でネットプリントを選択して、文書プリント【3THGAUJ6LF】を打ち込んでいただくと、プリントできるかと思います。じつはわたくしの周りはファミマ一強なので自分はこちらで印刷しようかと思っています。セブンイレブンがどこにでもあるとか、けっこう嘘ですよね。そんなにどこにでもあったら、わたくしは毎日ホイップドーナツを食べますよ。


さて、今日のブログは「百足の心臓」をはじめとした自分の創作物には欠かせないというか、どうしても離れられないテーマ「少女」について夜に任せてつらつら考えたいです。
この記事(というかいつも)下書きとかしないでまんま書いているので、いろいろ見苦しいところも
あるかと思いますが、ブログですし、いいじゃないですか。


少女っていいよねえってお話。


なぜ少女を書くのだというと、少女が好きだから、なぜ少女が好きなのと言われると、可愛いからとか綺麗だからとか闇が深そうだからとかむかつくからとか、理由はいろいろあるんですよね。でも、それだけでここまで書くかなあと思ったらそうでもないとなるし、って、本当にいろいろ。

ただ、好きとかそういうモノとは違う意味で、落山は「少女」に気持ち悪いくらいの「あこがれ」をいだいています。

書く理由の大半を、その「あこがれ」が占めている気がする。要するに、わたくしは少女になりたい。少女になって死にたい、というか。とにかくそれは「あこがれ」なんです。自分の書く小説の中で「少女」はだいたい綺麗な女の子として描かれる。それも「あこがれ」で、何もかもが羨ましくて妬ましい。そういう風に思いながら書いていることが少なからずあります。

見た目が綺麗で、横顔の輪郭がたまにとろけそうで、好奇心が旺盛で、厭世的で、禁止されたことと親の言いつけに過敏で、死にたくはないけれど消えたい、そんな風な生き物としての少女への「あこがれ」。年代によってわたし個人の印象は違いますが、中学生とか高校生くらいの女の子を想定することが多いです。それより下になってしまうと、また違うもののような。

自分の過ごしてきた年月を振り返ったりとかは嫌だし、かなり凡庸にしあわせに生きてきていると思うのに、自分は「少女」時代を持っていない、とたまに空しくなります。実際のことはおいておいて、です。実感のある少女時代がはたして存在するのかとか、そういうのは別のお話で。

自分の空白を埋めるため、ではなく、空白による妬ましさと羨ましさのために、わたしは「少女」を描くんじゃないかと思ったり、思わなかったり。だから、綺麗でもあり汚くもあり、繊細だったりずぼらだったりします。

でも、その「あこがれ」はやっぱり一部分だったり深層だったりして、基本的にはわたくしは「少女」というものをある程度テンプレ的に信仰しています。いや、その「あこがれ」もテンプレ―トいえばそうではありますが、個人的な思いと絡めるときに、という意味で。ぽっちり憎しみ、ありますよねえ。

最近は視線と性消費物としての少女についていろいろ考えています。ベンキョウではなく、考えているだけではありますが。女の子って、となるとこういう感じになった、というのが「百足の心臓」かなあ。テーマはド直球なので、大変にわかりやすい掌編であります。どうぞ、よろしく。


物書きのひとたちの様々な少女像を知りたいですね。



落山 羊

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